9月に入ると、酒屋の棚に「ひやおろし」が並びはじめます。
冬に搾った酒をひと夏寝かせ、秋に出荷する酒です。
ナガハマ88にも、鳥取県の梅津酒造から「梅津の生酛 玉栄80% ひやおろし」が届きました。
ひやおろしはよく、「ひと夏寝かせて、味がまろやかになった酒」と説明されます。
では、その夏のあいだ、酒の中では何が起きているのでしょう。
ひやおろしを変えたのは、単なる「時間」ではありません。大きく関わっているのは、夏の温度です。
パンの焼き色、夏を越した味噌や醤油の色、何年も寝かせた日本酒の琥珀色。
一見まったく違うものですが、その中では同じ家系の化学反応が起きています。そして、その反応の速さも、どんな香りへ向かうかも、温度によって大きく変わります。
蔵で過ごす夏の3か月は、冬の3か月と同じ「3か月」ではありません。
「ひやおろし」の冷やは、冷たいという意味ではない
まず、名前について少しだけ。
日本酒は通常、貯蔵する前と瓶詰めする前の2回、火入れと呼ばれる加熱処理をします。
ひやおろしは、春に一度火入れをして貯蔵し、秋になってから2回目の火入れをせず、そのまま出荷する酒です。
ここでいう「冷や」は、冷蔵された酒という意味ではなく、燗をつけていない常温の酒を指します。
そのため「冷やのまま卸す酒」から、ひやおろしと呼ばれるようになりました。
次に、春から秋までのあいだに酒がどう変わるのか見ていきましょう。
瓶の中では、トーストと同じ家系の反応が起きている
火入れをすると、麹や酵母が持つ酵素の働きは大きく抑えられますが、それでも酒は変わっていきます。
生き物の働きではなく、酒の中にある成分どうしが少しずつ反応していくからです。
その代表が、糖とアミノ酸のあいだで起こるメイラード反応です。
パンの耳が茶色くなる。焼き菓子が香ばしくなる。肉を焼くと香ばしい香りが生まれる。
みなさんも馴染みのあるものですね。
これらと同じ家系の反応が、日本酒の貯蔵中にもゆっくり起きています。
だから、長く寝かせた日本酒は少しずつ色づいていきます。
変わるのは色だけではありません。
長期間熟成させた日本酒を調べると、若い酒に多かったバナナやリンゴのような華やかな香りの成分が減り、代わりに熟成によって生まれる別の香りが増えていきます。
熟成とは、単純に「香りが抜ける」ことではありません。
香りの中身が入れ替わっていくことでもあります。
私たちが熟成した酒に感じる落ち着きや複雑さの背景には、こうした変化があります。
味噌も醤油も、夏を越して色づく
似たことは、もっと身近な食品でも起きています。
たとえば味噌。
味噌を置いておくと、少しずつ色が濃くなっていきます。
もちろん味噌の熟成には麹や微生物の働きもありますが、色が深くなる部分には、大豆由来のアミノ酸と糖によるメイラード反応が関係しています。そして、この反応は気温の高い夏ほど速く進みます。
醤油も同じです。
ナガハマ88で扱っている愛媛・梶田商店の「巽」は、二夏、1年半以上かけて熟成させる醤油です。
ここで面白いのは、日本酒と醤油が「色」だけでなく「香り」でもつながっていることです。
長く熟成した日本酒には、ときどき「醤油のような香り」と感じれる香りが現れます。
これは単なるたとえではありません。
熟成した日本酒と醤油には、メイラード反応によって生まれる、構造の近い香り成分があります。
つまり、熟成酒が醤油を思わせるのは、同じ道筋から香りが生まれているから。
日本酒の熟成を考えるとき、味噌や醤油は意外と近い存在です。
夏の3か月は、冬の3か月とは違う
では、なぜ「ひと夏」なのでしょう。
化学反応は、一般に温度が上がるほど速くなります。日本酒の熟成を示す成分を調べた研究でも、室温付近では温度が10℃上がることで、生成速度が数倍に高まる例があります。
つまり、カレンダーの上では同じ3か月でも、10℃の場所で過ごす3か月と、25℃の場所で過ごす3か月では、酒にとって流れている時間が違う。
ひやおろしが秋に変化した姿を見せるのは、ただ半年待ったからではありません。
その途中に、夏があるからです。
高温は、熟成の「早送り」ではない
ここで面白いのは、高い温度に置けば、単に同じ熟成が早く進むわけではないことです。
ある温度では、ある香りが強く出る。別の温度では、違うバランスで変化する。
つまり温度が決めるのは、熟成の速さだけではなく、どんな香りが前に出てくるかでもあります。
どんな温度を通ってきたかで、酒の行き先が変わる。
その違いそのものが、日本酒の熟成の面白さだと思います。
昔の人も、夏を越した酒の変化をよく見ていました。
夏を越して味がまとまった酒を「秋あがり」。
反対に、夏を越して味のバランスが変わった酒を「秋落ち」。
昔から、夏はただ酒を置いておく期間ではなく、酒が大きく動く季節として捉えられていたのでしょう。ひやおろしを見るとき、「何か月寝かせたか」だけでなく、どんな夏を越してきた酒なのかと考えると、少し見え方が変わります。
ひと夏は、長期熟成への最初の数歩
とはいえ、ひやおろしは「熟成酒」と呼ばれるような長期熟成の入口に立ったばかりです。
長く寝かせた日本酒には、カラメルや黒糖、メープルシロップを思わせる香りが現れることがあります。その代表的な成分のひとつがソトロンです。
ソトロンは濃度によって香りの印象が変わり、比較的穏やかな濃度ではメープルシロップやカラメルのように感じられます。さらに濃くなると、カレーなどに使われるスパイスのフェヌグリークを思わせる香りになります。
ただ、ひと夏越した程度の酒で、こうした香りがいきなり強く現れるわけではありません。
半年ほどのひやおろしは、まだ熟成の入口です。
若い酒の輪郭が少し変わり、色や香りを変える反応が動きはじめたところ。
何年も寝かせた古酒へ続く道の、最初の数歩です。
梅津の生酛 玉栄80% ひやおろし
今回入荷した「梅津の生酛 玉栄80% ひやおろし」は、鳥取県北栄町の梅津酒造の酒です。
使っている米は、地元の米農家・日置健生さんが育てた玉栄。
精米歩合は80%。米を2割しか削らずに仕込んでいます。
アルコール度数20.3%の原酒で、酸度は3.3。
米をあまり削らず、酸や旨味をしっかり持った、力のある酒です。
また、長期熟成したほかの梅津のお酒とは違い、まだ若さがあり、その中に少しずつ熟成の落ち着きが現れはじめている酒です。
長期熟成酒を調べた研究では、米をあまり削っていない酒や、アミノ酸・有機酸を多く含む酒ほど、貯蔵中の色や香りの変化が大きくなる傾向が報告されています。
反応する材料が多い、と考えると分かりやすいかもしれません。
店には2019酒造年度に造られた梅津「冨玲」もあります。
一夏を越した酒と、数年を越した酒、そして同じ80%精米歩合。
並べて飲むと、熟成が一本の線として見えてきます。
さて、ひやおろしのおすすめは、常温から熱燗です。
アルコール度数20.3%の原酒なので、常温でもしっかりした厚みがありが熱燗にすると苦味がほどけ、旨味と香ばしさがまとまり、まるでソースのような厚みのある味わいにまとまります。
そこに水を加えて温めると、また違った輪郭が出てきますので、原酒が強すぎるという方にはお勧めです。
燗で酒の味がどう変わるのかについては、以前の記事でも詳しく書いていますので合わせて参考にしてくださいね。
ここから先の熟成は、買った人の手元で続く
ひやおろしは、蔵で夏を越して終わる酒ではありません。
瓶の中の反応は、出荷されたあとも少しずつ続いていきます。
今の味をそのまま楽しむのもいい。少し置いて、変化を見るのもいい。
沖縄のように室温が高くなる場所では、その変化も当然速くなります。
たくあんや古漬けのような熟成香に向かうのか。カラメルや醤油のような香りが出てくるのか。あるいは、別の方向へ動いていくのか。
温度が違えば、同じ一本でも違った時間を過ごします。
ひやおろしを熟成させたのは、ただ過ぎていった数か月ではありません。
その酒が越えてきた、ひと夏の温度です。
今年のひやおろしを飲むとき、その夏のことを少し想像してみると、酒の見え方が変わるかもしれません。
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記事に登場した商品
梅津の生酛 玉栄80% ひやおろし R7BY
鳥取県北栄町の梅津酒造が、地元産の玉栄を80%精米・生酛で仕込み、一夏越して出荷したひやおろし。
常温でも、加水燗でも。
R7BYは令和7酒造年度(2025年7月〜2026年6月)に造られた酒という意味です。
- 種類:日本酒(生酛・火入れ/原酒)
- 生産者:梅津酒造(鳥取県東伯郡北栄町)
- 容量:720ml/1800ml
- 取扱い:店頭/オンラインストア
冨玲 生酛 山田錦80% R1BY
2019酒造年度に造られた梅津酒造の酒。
ひやおろしと並べると、「一夏」と「数年」の熟成の距離を飲み比べることができます。
- 種類:日本酒(生酛)
- 生産者:梅津酒造
- 取扱い:店頭/オンラインストア
お酒は20歳になってから。適量を、おいしく楽しみましょう。